アトリエ−M  ゴッホとゴーギャンに関する精神病的考察


                   
ゴッホとゴーギャンに関する精神病的考察

 ゴッホゴ−ギャンに関する文献は非常に多く、詳細に調べられている。ここでは、ゴッホの奇行、絵画より、またゴ−ギャンのパリでの退廃的生活、タヒチでの生活等より病的考察を行う。(医療専門家からの見解を参照にしている)

Vincent van Gogh1853−90                                         

 
ゴッホ(1853〜1890)は自分の耳を切り落とし、売春婦に送り届けている。それで売春婦との関係で梅毒をうつされ、精神の病もそれに依るのではないかと?1883年ゴッホは、実際に子持ちでしかも性病を患っていた娼婦と同棲している。 ところが1990年に、スウエーデン医療センターが新しい解釈を発表した。ゴッホが精神錯乱を押さえることができないと自ら治療を望んでサン・レミの精神病院に入ったと言うことに注目して発表された新たな見解であった。ゴッホが病院で幻聴やめまいの発作から救ってほしくて入院したことからスウエーデン医療センターの研究者は、ゴッホは精神を病んでいたのではなく、彼はメニエル病だったのではないかと言うことだ。 実際、メニエル病が進行すると、耳鳴りが激しくなり、そのため耳を傷つけたり、鼓膜を破ろうとする症例があるいう。つまりゴッホが耳を切り落としたのは、メニエル病に見られる症状だというのだ。ゴッホが耳を切り落としたのは、ゴーギャンとアルルで共同芸術活動をしていた時で、(ゴッホがゴーギャンと知り合ったのは86年テオの紹介で、そして88年にアルルでの共同芸術活動を始める) お互い個性の強い二人であったから、言い争いがあって、共同生活が破綻しかけていた頃だ・・・  ゴッホは、ローソクの炎に手を掲げ、ローソクが燃え尽きるまでとか、他人との共同生活にも自我の強さが・・・とか激情の持ち主で、手段を選ばないところが以前にもあったし、耳を切り落としたのもそういうところがあったのではないか? 耳鳴りが激しくなり、しかもゴーギャンとの共同芸術活動にもギスギスした関係になり、どうしようもない気持ちになり・・・  だがそういう状況でも作品の創作を続けていったその行為、独創性こそは、ゴッホの芸術家としての凄さだ・・・  後年ゴッホの傑作となるオリーブ園、麦畑、糸杉などをモティーフとする作品をサン・レミの精神病院に入院している時に、描いているのだ。ゴッホの人生の中で最も充実した創作期であったのだ。

 またイギリスの臨床薬理学者J・アロンソンもゴッホの梅毒による精神病を疑っている。アロンソン氏は、まずゴッホの担当医だったガッシュ博士の診断を疑った。ガッシュ博士は、絵の具に含まれる松ヤニから蒸発する気体を吸い松ヤニ中毒だったゴッホが南仏の強い陽射しを受け日射病になった、といっているのだ。(ガッシュ博士を紹介したのは、カミューユ・ピサロだったらしい)しかしアロンソン氏はゴッホによって描かれたガッシュ博士(ガッシュ博士の肖像)を観て、そこに描かれている本人が手に持っている植物がキツネノテブクロであることから、ゴッホはジキタリス中毒ではなかったかというのである。ジキタリスはキツネノテブクロから抽出されるのだ。(ジキタリスは古代から知られていて、触ると受胎すると言われた毒草)幸福感が得られるが取りすぎるとめまいや視力障害ともなる。物がぼやけて見えたり、光の傘がかかっているように見えたり、色彩が緑や黄色っぽく見えたりする。この説の信憑性はまだよく分かっていないが、ゴッホの絵の中に観られる純色の黄色や緑色に観られるように、またゴッホがテオに当てた手紙の中でも”黄色は美しい”と言っている・・・のは確かだ。


Paul Gauguin (1848-1903)                                                     

 
ゴーギャン(1848-1903)は1891年都会生活を嫌いタヒチに渡った。それまでゴーギャンは株のブローカーをやっていて、日曜画家として印象派の画家達と付き合っていて、展覧会などにも出展していた。景気が良くて幸せな家庭を築いていたがだんだん景気が悪くなり厳しい現実を身をもって感じていただろう。1882年金融恐慌があり、ゴーギャンは株式の仕事を断念し、画家になると家族にうち明けたとき猛烈に反対されたそうな・・・そして絵も売れることなく経済的に厳しくなった。またゴッホと共同で南仏での共同芸術活動もうまくいかず、妻子とも別れある日突然タヒチを目指すのだ。退廃的な都会の生活で痛めていたのか、西インド諸島に辿り着いたときには肝臓がやられていた。タヒチでは喀血もしたそうだ。そんな状態でのゴーギャンの楽園生活はというとタバコも吸っていたし島の若い娘を愛人にして退廃的生活も止めなかった。我々が思い描いているような楽園生活ではなかったと思う。どうも女性から梅毒を移されていたようだった。(情報によると性病にかかったのは1895年頃とされている。タヒチに行く前頃になるとゴーギャンは後期印象派の指導的立場にあり、都会での退廃的な生活を送っていたようだ)一度フランスに帰りタヒチでの作品の展覧会を行ったが評判はさほど良くなかった。それで1895年またタヒチを目指すのだ。そして傷心のまま制作を続けるのだが、梅毒で視覚障害を起こすようになっていたのかもしれない。(その治療で劇薬が使われたともいわれている)タバコもよく吸っていたようだ。 そのうちに鬱病に陥ってしまい、ついに1898年砒素を飲んで自殺を図ったが、死ぬことができず、ベッドから動けない状態を数ヶ月強いられ、身も心もボロボロになって、更に孤島を目指すようになった。そうして1901年タヒチから1500km北東の住民など殆どいない孤島ヒヴァ・オア島に移ります。そしてそこで誰に看取られることなく死んでいった。

 しかし私は悲惨な空しい死に方をしたとは思わない・・・それよりもいかにも芸術家というような凄さを感じる生き方を想う・・・  なにを隠そう私もまた南の島の楽園での生活に憧れていて、スキューバダイビングの仲間とは良く話をしているのだ・・・  (前衛的な絵画活動を行うには、都会であるほうが良いのだろうが、私は、ゴーギャンや田中一村のような芸術家としての生き方にも憧れるのだ・・・)